
date: 2008年01月22日 | text : N島 縦 |RSS|
その晩は、野暮用、営業、やっつけ仕事や集金、雑事、大事な商談どもが順不動でひしめきあっており、道すがら夜の女達をからかいながら、俺は時計も見ずにサクサクと済ませていった。最近よく会う出入り業者のにいちゃんと2軒ほど軽く飲んでから、事務所に戻ったのは深夜3時過ぎだった。
ひんやりと冷たい空気に静まり返った部屋の中で、冷蔵庫から冷たい茶を呷りひと息ついた。
今日のアガリが結構よかったこととほろ酔い加減のせいか、いくぶん気が軽くなり件の高木の原稿の束に手が伸びた。
「まぁ、いーや。 要は高木に連絡とって近況なんかをチョチョっと聞いて、ササッとリポートまとめりゃあいいんだろ? 小説は、斜め読みでいいや、この際。 だいたいの雰囲気さえ掴めれば……つーか、いっそ結末から読もうかなぁ……」
リポーターどころか、もはや作品に対する冒涜である(笑)。
……が、読み始めて十数行。 俺の目論見は見事に裏切られた。
面白れえ。 読ませる。 やるじゃねーか……。
作品中に高木と同名のクリエイター君が最初から登場するもんだから「これって、ヤツの日常そのまんまかよ」と突っ込みを入れたくなったが、次第に様相が変化していった。
いつしか俺はその原稿に強烈な磁力で引き込まれ、小説『クリムゾン・ルーム』の世界に、計らずもどっぷり浸ってしまったのだ。
「ご賞味ください……」あの女の美しい筆跡が脳裏に浮かんだ。
給仕であるI川今日子が運んだ、その料理というか創作物に、俺は舌をとろかし、味覚と脳髄に急性の中毒症状を起こしたのである。
はっと気が付くと、時計は午前7時半を示していた。
俺は一気に全部食らってしまっていた。
こいつは、いったい……?
誤解を恐れずに言えば、とても奇妙な味付けの小説である。
そして、紛れもなく高木敏光の小説だ。そこには俺の知っている高木もいて、俺の知らない高木も確かに存在した。
まず冒頭の衝撃シーンと、それに続く主人公のモノローグ。
鳥肌が立った。なんていうか、こう……匂い立つような文体なんだよ。
事物が簡潔に書かれているだけだ。 くどい説明や、もって回った比喩などもない。 が、行間から何かが滲み出ている。それは肉汁でも、果肉でも、グルタミン酸でもない。“鶏がら”やブイヨンでもカツオ出汁でもない。 客であるこっちのオーダーを拒否され『シェフが貴方の為に今宵は格別なコースを用意しますから』とだけ言い渡され、空腹を抱えたまま、唾液を嘗め嘗め、テーブルクロスに肘を付き、アドレナリンを全身から分泌させながら、いましも厨房から登場する料理を待っている、そんな期待と不安と焦燥感の渦中に、読んでいる間じゅう放り込まれる、そんなレストランなのだ。 そこには何かが起きる濃密な予感だけが存在する。 それが吉事なのか凶事なのかは判別しない。 それは、客でありながらまるでシェフと一騎打ちの勝負を挑んでいるような、胸の高鳴りである。
物語の主人公・高木にとっては全てがゲームなのか? 生の実感はどこにある? アルコール? 女? それとも……?
彼の魂は高層ビルとビルの間を平均台に載って歩いているような、脆うい均衡にようやく支えられている。 その緊張感が小説の全体を遍く支配している。 そこから彼は漆黒の闇に落っこちてしまうのか? それとも背中から羽が生えて、煌く銀の虚空へ翔び立つのだろうか?
文例や登場人物・エピソードを挙げてここで事細かに書く段階じゃあない。ましてそれをやることは本意ではないナ。 まずは、誰もが実際にこいつを読み、味わい、飲みくだすしかねえな。 だがその結果、この小説がおまえ達読者をどこへ連れていくのか、それは俺が関知するところではない。
実はその朝、俺は眠らないまま興奮して“鈴ボイス”に電話をし、小説の感想を延々40分に渡り語ってしまった。
単に俺・N島が小説にかこつけてI川今日子と話がしたかっただけでは? という邪推が必ず来るのは承知の上だ。 が、誤解しないでくれ。これに関して俺は、本当にただ興奮と快哉を伝えたくて、便箋にあったIP番号に電話してしまったんだよ。 信じて欲しい。 その証拠に俺は、彼女と面会の約束を取り付けることすら、すっかり忘れていたのだから。
ところで、電話の間じゅうI川はハイになっている俺の感想に「ええ!」「そう!」「でしょ?」と絶妙の合いの手を入れていたが、俺がひととおり話し終わると、すぅーっと息を吸う音がして「タテさんに気に入ってもらえて、ほんっっと、よかったですぅぅ」と、まるで感極まったと言わんばかりに鼻にかかった甘え声を出した。
なんだか我に返った。
いったいこの女は、何者なんだ。
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