
date: 2008年03月25日 | text : N島 縦 |RSS|
お待たせ。
立ち読みページが、やっと公開されたな。
これは、限定配布された例の‘ゲラ本’と同じものではない。
隅々まで完璧に直された、つまりは、実際に書店に並ぶ本の序盤の章そのものなのである。
──そして。
「クリムゾン・ルーム」の初版が、ついに刷り上ったようだ。
先週末、例の《作家養成ゼミ》が開催されたのだが、産まれたばかりの「クリムゾン・ルーム」を抱いて、サンマーク出版の高橋編集長が駆けつけたそうである。
受け取った高木敏光の眼には、大粒の涙が浮かんでいた……という話は残念ながら聞いていない。
俺は、ゼミには行けなかった。
報せは受けていたが、賃料を大幅に滞納している店子が、トんでしまいそうだったので身柄を抑えなきゃならない日だったのだ。
それに、連絡をくれた当のI川今日子も、その日は出張で欠席するって言ってたから、ナ(笑)。
ん? リポーターとして怠慢だぁ?
……いいのさ、別に。
最近では、おかげさんで交友範囲と情報網が広がって、ある程度、自力で情報を拾うことができるようになった。
ゼミについては、出席したE垣さんに昨日、電話で様子を聞いちまったゼ。
彼女の記憶・記録力はPC並みで、実に頼りになるんだよなぁ。主観を交えずに事柄を正確に伝えてくれるという点で、ある意味、I川よりずっと頼りになる。
I川今日子は、ときどき舞い上がっちまうから、なぁ。
さて、ほぼ1年に亘った画期的なゼミも、第1期の最終講義ということで、盛況のうちにフィナーレ、だったようである。
E垣さんによれば、主催する書店リブロのクール・ダンディなエグゼティブ、石川部長は「クリムゾン・ルーム」に、かなりの期待をしていた、とのこと。
なにしろ、先日から予約が開始されたリブロ系列・ロゴスのオンライン注文ページでは、サイト始まって以来の予約件数を記録している、というのだ(!)。
俊英な企業人という風貌とは裏腹に、かつてバンドマンで鳴らしたという石川氏の先鋭的な鑑識眼にもこの作品は叶ったらしく、個人的にも書店人的にも高木敏光を積極的に盛り上げていく、との意向を述べていただいたらしい。
さらには、売れる本への嗅覚に優れた、謂わば‘目利き’揃いのリブロの各店長達が、自店に新人の文芸作品としては異例の冊数を入荷する予定であることも、合わせて発表された。
これは、単に作家養成ゼミの主催者がリブロだから、という理由からではない。
彼らはプロである。たくさん本を入荷してそれが売れなければ返本率があがり、デメリットでしかない。有能な本のバイヤーである店長達が「クリムゾン・ルーム」の潜在的可能性を嗅ぎつけていることの顕れなのだ。
……ともあれ、よかったなあ、高木よ。
──午後の緩やかな時間、ふと気が付くと俺は‘立ち読みコーナー’を全て読んでしまっていた。
バーチャルながらページをめくる感覚が、優雅な読書の昼下がり、という感じで、心が解れた。考えてみると、飽きっぽいこの俺が、こんなに何度も繰り返し読んだ本も珍しいナ。
空腹を覚えた俺は、小説の雰囲気に浸りながら、ぷらぷらと近くの定食屋まで歩いていき、ロースカツ定食を頼み、ご飯を三杯もお代わりしてしまった。ここんちのゴハンは麦や雑穀がまじっていて、実に風味がよいのだ。
……それにしても、立ち読みコーナー。009のとこで、ぷっつり終わってしまうというのは、いただけん。
続きが、無性に読みたくなっちまうじゃねえか。
しようがない。手元にある‘ゲラ本’でも読むか?
……いやいや、もう完成した本があるのだから、出来ればそっちを手に取りたい。
I川今日子のメールでは、製作委員会に届いた完成本数冊の中から1冊こちらに送るから、と言っていた。
早く、来ねえかなぁ……。
爪楊枝をくわえ、そんなことを考えながら路地を曲がり、事務所のある雑居ビルまであと十数メートルという地点で、ある人影が目に入った。
ん?
俺の帰ろうとする小さなビルの入り口から、一人の女性が足早に跳び出してゆく。ツバの小さな帽子を目深に被り、口には白のマスク、今日の暖かさからすると少し暑苦しいベージュ色のショート丈のトレンチコート。スラリと形のよいふくらはぎが細めのヒールをコツコツと響かせて遠ざかっていく。
うーん。見かけねえ容姿の女だな?
後姿を見送りながら、俺は3段ほどの階段がついた共用口に足をかけた。
お?
30分前には無かった分厚い茶封筒が、301号、つまりウチのポストへ刺さっている。
『クリムゾン・ルーム』在中、と赤い字で書かれたその筆跡は、見覚えのあるI川のものだった。
このパターンは?……今は郵便配達の時間じゃねえ。
何かが頭で弾ける音がして、俺はもういちど路地へ飛び出した。
今の女……!?
30メートルほどの先の角を小走りで右に曲がる薄いベージュのコートが見えた。
あいつは、……いったい?
俺は、走った。
くそっ。スニーカーで出るべきだった。
サンダルが脱げそうで、うまく走れない。
俺の出で立ちといえば、青いクロックサンダルに、囚人のような横縞模様のストンとしたジャージ素材のズボン。上半身は、やけに胸のひらいたVネックのサマーセーター。
そんな情けない風体で、俺は歌舞伎町二丁目の路地を走った。
「っよおお、タテちゃーん、なに急いでんのお…」
出前中のラーメン屋のオヤジや、散歩のおばあちゃんがニヤニヤ笑って掛ける声が、ドップラー効果で調を変え、遠ざかっていく。
全力で、俺は走ったつもりだったが、満腹すぎて胃袋からさっきのトンカツがせり上がってきそうだった。
くっ。腹が重い。
──しかし、やっと路地を右に曲がると、もう女の姿は無い。
さっき食った定食屋を過ぎると間もなく、職安通りに出る。
諦めずに俺は走り、大きな通りに飛び出した。
その時、まさにタクシーがバタムと扉を閉め、発信するところだった。
するすると加速しながら通り過ぎていく緑色の車。
俺の眼には、スローモーションのように、大きめのサングラスの縁に手をかけながら、右後部席から俺を見つめる女の姿が映った。眼差しは見えなくとも顔の角度は、明らかに俺を見ているようだった。
茫然と、ジャージで歩道に立ち尽くす俺。
韓国人の若者達が何やら大声で賑やかに話しながら、俺の後ろを過ぎていった。
以前も俺の事務所に‘束見本’を直接届けたのも、今の女に違いない。
でも、いったい何のために?
郵送でも宅配でも充分なのに、なぜ?
しかも夜ではなく、わざわざ俺が事務所にいる昼間の時間帯に、ちょっと食事で外した時間の隙間を狙ったかのように……。
考えれば考えるほど、頭が混乱する。
もしや、……あれが、I川今日子・本人だとしたら?
深い懊悩に、俺は包まれていった。
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