
date: 2008年04月30日 | text : N島 縦 |RSS|
I川今日子を見た瞬間、俺は、言葉が出なかった。
I川本人に会うのは、これがもちろん初めてだ。
俺は、つい先日、I川の勤める会社で履歴書の小さな写真を見たに過ぎない。
しかし、その顔立ちがあまりに俺のイメージどおりだったこともあって、俺は既に何度も彼女に会っているかのような錯覚に陥っていた。
俺の持っている彼女に関する僅かな情報と感覚が、しかしこれは、まぎれもなくI川今日子である、と告げていた。
I川は、エレベーターから出た直後に、俺を見て、立ち止まった。
完全に目が合った。
もう逃げようがない。見つかってしまった。
覚悟を決めたものの、なんと言って声をかけるべきか、俺は逡巡していた。
お互いに見つめあったまま、しばし静止した。
その間、2秒くらいだろうか。
ところが、驚いたことに彼女は、そのまま俺から目を逸らし、くるりと体の向きを左に替えて、歩き出してしまったのである。
拍子抜けを食らった。
俺が、判らないのか?
いや、そんなはずは無い。
俺の姿をよく知っている、とI川今日子自身が以前言っていた。
現に、俺に目を留めて立ち止まったといういましがたの行動は、俺への反応を示している。
……もしかすると、近眼ではっきり見えなかった?
I川の視力のことまでは、チェックしていなかった。
が、たとえ重度の近眼であっても、2、3メートルの至近距離で、知人の顔を認識できないものだろうか?
俺は視力が悪くないので、実感としてはよく解らないのだが、近眼の人間というのは視力が弱い分だけ、逆に他の感覚が研ぎ澄まされて視力を補うので、むしろ対象の認識・把握能力が高まるのではないだろうか? それが、少なくとも今までに俺の側にいた人間達はそうだった。
あるいは、I川の病気が何かは知らないが、投薬や何かの継続的治療によって、ある種の感覚が、部分的あるいは一時的に遮断されているのではないのか?
さっきのI川の眼。
俺を見つめる眼には生気がなく、どこか虚ろだった。
俺を見ていながら、俺の体を素通りして後ろの壁を見つめているような、そんな瞳だった。
俺は、追っていってI川を捕まえ問いただしたい、という衝動に、2、3歩足を進めたが、止まった。
──いや。
抑えるんだ。
もし、I川が俺に気づいていないのであれば、本来は好都合なのではないか。
もともと気づかれずに、I川を見たいと考えていたのだ。
俺は歩みを遅くして、I川の姿を追った。
彼女は、横縞模様のスゥエットパンツに、赤いカーディガンを羽織っていた。
街なかで履くようなゴールドのアクセントのついたサンダルで、やや頼りなげにパタパタと歩いている。
1階フロアの中ほどにある売店に、彼女は入っていった。
小さいコンビニほどの大きさの売店から、20mほど離れた位置で俺は彼女の姿を観察した。顔色は白く、やつれている、という印象だった。そのため、大きな瞳が余計際立って大きく見えた。
あまり点数の多くない雑誌コーナーで、彼女はしばらく立ち止まっていたが、やがてレジで会計を済ませ、ビニール袋をぶら下げて出てきた。
俺は会計コーナーの大きな柱の陰から様子を窺っていた。彼女は下の床を見つめながら無表情に、おれの前を通り過ぎ、再びエレベーター前に立った。ほどなく地階から上昇した箱内に乗り込んだ彼女の他に、同乗客は2人いた。
俺は柱の陰からホールに出ると、移動していくエレベーターの表示ランプを見つめた。
まず5階で止まった。その次は、7階。そして11階で止まった後、マシンは降下に入った。
そして、正面玄関まで戻った俺は、施設案内盤をもう一度見た。
4階から上が入院病棟となっており、
5階 精神神経科
7階 外科・整形外科
11階 内分泌科
との表示がされている。
…………
俺は、受付に向かった。
3人並んだうち、白いセルフレームの眼鏡をかけた女性が顔を上げた。
「実は、こちらに入院している友人の見舞いに来たのですが……」
「はい。……患者さんのお名前と診療科目がわかれば、お願いいたします」
「精神神経科のT野益椰さん、ですが」
まるっきりの当てずっぽうで、科を言ったわけではなかった。
『T野さんという名の方は、この科には入院していませんが……』
俺は、そういう答えを期待していた。
だが受付嬢は言った。
「はい、T野さんなら、5階の514号室に入院されております。……ですが、T野さんは面会を制限されていらっしゃいますね。医師の認めた方しか、お会いになることが出来ません……」
「………」
俺は、自分の予想が当たってしまい、目の前が灰色に塗りつぶされたような気持ちになっていた。
「……どうなさいますか?主治医の宮島先生は本日は学会でお休みされているのですが……」
「……いや、いいんです。出直して来ます」
「よろしいんですか?」
俺は念の為に、その医師の勤務シフトを聞いておき、その場をいったん離れたが、思いなおして再び受付に戻ってきた。
「……なにか?」
「ああ、悪いんだけどな、面会が出来ないんなら、これを渡してくれないか」
俺は先ほど葵フラワーで買い求めたブーケを半ば無理矢理受付嬢に渡した。
「誰が持ってきた、なんてことは言わないでいいから」
「………」
当惑顔の受付嬢を尻目に、俺は病院を後にした。
重い足取りで、電車を乗り継ぎ新宿へ戻った。
サンロードを歩く俺の全身に、疲労が張り付いていて、今晩の仕事を休みたい気分だった。
こんな気分になるのは珍しい。
I川今日子……いったいどうしたっていうんだ?
心を病んでる、っていうのか。
よりによって、彼女が、なぜ?
全ては電話での会話だったが、かつてI川と話した中には、そんな兆候はなかった。
だが一方で、彼女について思い当たるいくつかの不可解な行動は、他の体の器官にまつわるどんな病気よりも精神の病が、その原因としていちばんしっくり来るような気がしたことも事実だった。
心のバランスを失うような、どんな原因が彼女にあるというのか?
足を折ったとか盲腸とか、そんなことなら、どんなによかったか知れない。
俺には手出しが出来ないところに彼女が立っているような気がして、いたたまれない気持ちになった。
「なーに、暗ーい顔、してんのよう」
俺がよほど沈痛な顔をしていたのだろうか、集金によったバナメロで思いっきルイに
パシーンと背中を叩かれた。
「いや、生理痛でな」
「バッカじゃないの!? それより、焼肉、いつ連れてってくれるのよ!」
「ルイが店のNo.1になったら、な」
「そんな日は、ぜったい来ませーン!」
……少し正気に戻った。
ルイはいいコだ、と思った。
やっとの思いで俺はその晩の集金やら商談を終え、どこにも寄り道をせず午前3時過ぎ、事務所に帰り着くことができた。
だが、熱いシャワーを浴び横になっても眠ることが出来ず、俺にしては珍しく、棚で埃を被っていたアイリッシュ・ウイスキーをロックで飲んだ。
ようやく、ウトウトと眠りに落ちて間もなく、けたたましく電話のベルが鳴った。
窓の外が、うすら明るい。
見ると時計は朝の5時半である。
俺は、ベッドから転げおちるように飛び降り、電話をとった。
「………」
回線の向こう側は、沈黙だった。
「……I川か?」
「……ウン」
「……おまえ」
思わず、溜息が漏れた。
「心配、したんだぞ」
「タテさん……タテさんでしょ?お花をくれたの」
「……ああ。わかったか?」
「……病院、来たのね」
「おう。……勝手に行って、悪かったな」
「……ウウン。顔見せに来てくれれば、よかったのに」
「……顔見せに、って、おまえ」
エレベーターの前で会ったじゃねえか! と、言おうとして口をつぐんだ。
「受付で、面会謝絶、って言われたゾ」
「ふふ。そんな大げさなものじゃなくって、あたしが誰にも会いたくない、って先生に言ったの」
「だろ? ……だから俺だって、遠慮したんだゼ」
「……でも、来てくれたんだね……ココまで」
「けっこう、苦労したぜ、たどり着くのに。周りのヤツに、ストーカー呼ばわりされながら、な」
「へへへ。あたし、通報したほうがいいかな?」
「馬鹿め」
「……でも、あたしね、タテさんが見つけてくれるような気がしていたの」
「ほお。そりゃ、どうして?」
あれほど、俺に会うのを避けていたじゃねえか……。
「夢、みたのよ、何度もタテさんの夢を……」
「……そりゃ、光栄だな、濃厚なラブシーンか?」
会ってもいない人間を、何度も夢に見るなんて、そうそうあるだろうか?
「あはは。相変わらずね。……いちばん最近、見たのは、今朝だったかな?
この病院のね、1階のホールで、バッタリ会うの」
お、おい、それは……。
「で、私がびっくりしていると、さあ帰ろうぜ、ってチューリップの花束をくれて」
「………」
「そうしたら夜になって、その夢とおんなじ色のチューリップが、病室に届いたの。不思議だと思わない?」
おかしい。
I川今日子は、現実に起こったことを、夢だと思っている。
実際に花を持った俺にエレベーターの前で会っているのに、本人の意識はそれを夢だと認識している……。
???
こんなことって、あるのか?
だが、この不可解な発言にこそ、I川の心の病の鍵があるのかもしれなかった。
俺は、何と言ってよいか判らなかった。
「……I川よ」
「ん?」
「見舞いに、いくぜ。もういっかい」
「え、ええ」
「……いいか?」
「で、でも、タテさん忙しいでしょう」
「はぐらかすなよ、この期におよんで」
「あたし、こんな病院に入院している状態で、会いたくないな、やっぱり」
「格好つけてる場合かよ!」
また、I川の‘逃げ’が始まった。
が、今回は、俺は怯まなかった。
「おまえ、身の回りのこととか、どうしてるんだ?入院となると、緊急時の連絡先とか必要だろう?」
「……親戚で、小さい頃よく可愛がってくれていた叔母さんが埼玉にいるの」
「ふむ。だが、いつも来てくれてる訳じゃないだろ?」
「……」
「おまえ、本当は誰かに聞いてもらいたいんじゃねえのか? 俺は、世間体も悪いチンピラみたいなヤツだが、話くらい聞いてやれるぞ。そこの医者がどれだけ腕がいいか知らないが、ダチはダチで必要だろ?」
沈黙が流れた。
すすり泣く声が聴こえた。
「俺なぁ、おまえを救えるなんて、大それたことは言わねぇよ。だけどやってみないことには、始まらないぞ」
泣き声は、しだいに激しくしゃくり上げる音に変わっていた。
「……だめなの。優しくしないで。あたし……あたし、会えない。やっぱり来ないで! あたし、タテさんには会えない。堪えられそうもない!……」
ツーツーツー。
I川は、自分で電話を切ってしまった。
受話器を握り締めたまま、がっくりと俺は机に肘をついた。
肩と腕に自然と入っていた力を、緩めた。
電話といえど、真剣勝負だ。
だが俺は、余計なことを言ってしまったのだろうか?
彼女は大丈夫だろうか……
だが、それにしても、俺には喉元に引っ掛かる小骨のような違和感があった。
以前から感じている、俺への態度の不自然さである。
‘堪えられそうもない——’
彼女の発した言葉が耳に残った。
何を意味する?
俺は、白い光の射す窓ガラスを見つめたまま、答えが出せずにいた。
さて。
高木敏光のメディア露出は続いている。
雑誌では、予告していた週刊プレイボーイと、月刊宝島に載り、29日の読売新聞の朝刊・文芸欄にも写真入りで紹介されている。
俺が思うには、読売新聞の写真がもっとも普段のヤツの風貌に近い、と言う気がする。
週刊プレイボーイは、それらしく軽いタッチの紹介のしかたである。
その中で「──それにしても、この主人公はよく遊びますね。バブルのにおいがします」というインタビュアーの発言がある。高木はそれを否定もせず、俺達の世代の特徴としての返答をしているのだが、これを読んで俺は、かつて高木が20代の頃に大手文芸誌の文学新人賞を次々と最終選考で落選したときの選考委員の評を思い出した。
評者の名前は忘れたが、選考委員を勤めるくらいの高名な作家である。
曰く「この著者は、エネルギーを遊びに浪費しすぎる」とのコメントを高木とその作品に対し与えたのである。そのことが、文学賞の当落にどのような意味をもったのかは窺い知れない。
だが俺は、この評価について、高木という創造者を見抜いているようで、もし批判として発言されたものであれば、それは半分しかヤツの本質を言い得てはいない、と改めて思うのだ。
高木敏光という男にとっては、‘遊び’こそがエネルギーであり、創造の源なのである。
というよりも、彼にとっては創造とは高度の遊びであり、酒を酌み交わすにしろ、女性との逢瀬にせよ、友人と語るにせよ、彼が心の底から楽しみを見出し遊ぶとき、そこには創造と遊びの境目が失くなっているのである。
これは、例えば自分の仕事を愛していない人間がいるとして、その我慢や欝憤を仕事以外のオフの時間で発散し、埋め合わせをしようとする遊び方とは、対極を為すものなのである。
つまり、遊ぶときの高木敏光は、その対象がなんであれ真剣そのものであり、1秒たりとも気を抜いていないのだ。
味わい尽くし、遊び倒す。
だからこそ、彼は時に心身に支障を来たすまでに、朝まで酒を呑み、旨いものを食らい、女に会い、友と語らうのである。
創り手である自分が、とことん楽しさを味わうことを知らなければ、人を楽しませることなど到底できるものか、とでも言いたいかのように、ヤツは今日も遊ぶ。
だから俺は、この先の未来にも、高木にはどんどん遊んでもらいたいと思っている。
消費し、消化し、蕩尽してほしい、と。
……俺?
俺は、もういいや。
プランターに大好きな植物がひと植えあって、毎日、朝と晩に好きな香りを吸い込んで、それで気分よく生きていけたらいいよなぁって、最近思う。
笑うか?
実際そうは、なかなか出来てないけどな。
俺も歳をとったのかな?
真剣に遊ぶって、パワーがいるんだよ、諸君。
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