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特別企画 N島リポート"

特別企画 N島リポート

第36回 観覧車からの帰還

date: 2008年05月16日 | text : N島 縦 |RSS

バランスを失ったI川が、両手で鉄柱にしがみついて体制を直そうとしていた。
やっと足場を見つけ這い上がった。
それでも、彼女の自分への嘲りは続いた。
「ゴンドラの中で、あたしは怖くて、ただ泣いていた……。開かない窓を破る手段も勇気も無く、じっと観覧車が回転し終わるのを、待っていたのよ……」
あの麗しい美声は、今や老婆のように擦れていた。
「そして、パパは死んだのよ! あたしの目の前で!」
「………」
「あたしが、もっと頑張ってれば……、もっといい子だったら……パパは死ななかったのよ! ……だから、助けるのよ! パパを!! 弱虫のあたしから!」
彼女の表層意識は、完全に混乱しているようだった。

俺にはまだ不可解なことがいくつかあった。
だがいずれにせよ俺はI川今日子の秘密をいま、知ることができた。
いったいどのくらいのショックと悲しみがまだ小さい彼女を襲ったのか、想像するに余りがあった。
そして、彼女が苦しむ原因の一端を知ったそのことが、驚愕や怖れよりも勇気を俺に与えた。

「……I川! もう、わかった! 俺が行く!」
彼女は震えながら、え? という顔で俺を見た。
「俺みたいなヤツが、助けに来て欲しかったんだろ?」
茫然と俺を見つめている。
いま俺を見るこの目は、I川今日子か……それとも?
「だから、俺が行って、助け出す」
涙と埃で薄汚れてしまった顔を俺に向けていたが、I川は無言だった。
「だからおまえは、こっちで待ってろ」
俺はそろそろと身体を移動し、I川のいる、円の外周部の湾曲した鉄柱に近づいた。
そこからゴンドラをぶら下げている支柱まで2.5m余りある。そこからは、下部に向かっての移動になる。身長が160cmくらいのI川は、怖くなったのかそこで躊躇していたが、175cmある俺なら今I川が居る場所からぶらさがって、なんとかゴンドラに乗り移ることができるかもしれない。
「ちょっと、そっちに行くからな」
俺は、I川に向かって飛びついた。
後ろから抱き抱える形になった。
I川が驚いて小さく反応した。
こんな状況だが、彼女からはいい香りがした。
俺の胸が彼女の背とぴったりくっついて、包み込むように俺はI川を抱いていた。
初対面で、しかも会って数分でこんなに密着する男女は、そうは居ない。
なかなか、いい体位だ。
俺たちって、こういう運命なのか、やっぱり。
むふふ。
──と、助平な空想に浸っている場合ではなかった。

俺が指を重ねたI川の手の甲は、長い間鉄柱を握り締めていたためか、すっかリ冷たくなっていた。
2人が捕まっている鉄柱から、くるりと体を前に回りこみゴンドラへの支柱へ乗り移り、今度は下からI川を見上げる体勢になった。
「俺が行ってくるから、お前は安全なとこで待ってろ」
俺は、ニッと笑って見せた。
I川は何も言わず茫然と見つめている。
俺は、登り棒を滑る要領でするするとゴンドラへ向かって下降していった。
そういやあ、子供の頃、こういう斜めになった登り棒があったよな……。
俺は、ゴンドラの屋根が足元に見えてきたので、あと50センチくらいというところで安心して飛び降りたが、これは失敗だった。
静止して安定感があるように見えたゴンドラは、俺が屋根に乗った瞬間大きく前後にグラグラと揺れた。
あやうく前のめりにゴンドラから振り落とされそうなところを、俺はひしゃげた蛙のようにうつ伏せになって、屋根にへばりついた。
ひゅーっ。危なかったぜ。
上を見るとI川が心配そうに見ている。
ここからでも地上まで7、8メートルの高さがあった。

俺はまだ揺れているゴンドラの屋上で体勢を建て直し、いちど肩膝を立てて座った。
「おーい、I川! おまえも降りてこい」
「えっ」
やはり離れているよりは、I川を側に置いておくほうが安全だ。
俺は自分が座っているゴンドラの屋根を指差して言った。
「こんなかに、居るんだよな?」
「うん」
「16号なんだよな?」
「うん」
「おまえも手伝え。俺が受け止めるから、降りて来い」
I川はコクリと頷くと、意外とあっさりと俺と同じように支柱をするすると降りてきた。
「ホラ」
後ろからしっかり捕まえる。
今日二度目の抱擁だ。
役得っていうか、やはり美人を抱くというのは、元気が出るなぁ。
俺って野郎は脳天気だなぁ、とつくづく思うが、こういう自分が俺は大好きだ。

ゴンドラの上は丸みを帯びていて、しかも思ったよりも狭かった。
二人は肩を寄せ合うように、掴まっているしかなった。
「さて、中に助けにいけばいいんだな?」
屋根から身を乗り出し、慎重に窓を点検するが、開口するところは無さそうだった。
俺は屋上の縁の突起物に掴まると、腰から下を窓の外側にぶら下げるような格好になった。
そして、思い切りゴンドラの窓を蹴り始めた。
バン! バン! バン!
窓はプラスチックなのかアクリル製なのかびくともしない。
蹴るたびにゴンドラが大きく揺れた。
I川が掴まった手をきつく握り締めている。
くそっ。
バン、バン、バン!
つま先が痛い。
1、2分、蹴り続けたろうか。
やっと窓の端がへこみ、外側から嵌めこんである窓の接合部が壊れてきた。そこへ俺が持ち歩いている小型のサバイバルナイフを出しねじ込むと、てこのように外側に窓の板をねじ曲げて開いた。体勢を変え今度は外側を向き縁に椅子のように座ると、踵でそのプラスチック板を外へ強引に開いていった。すると、俺の蹴りでだいぶ弱くなっていたのだろうか、バリバリと音がしてぐにゃりと板は90度に曲がり、ゴンドラの窓に50センチ四方くらいの穴が出来た。

「先に入れ」
「えっ」
「助けに来たんだろ? 先に入れよ。おまえのほうが体が細いから、入りやすい」
「わかった」
素直になっている。
そのとき、俺の頭には深い考えがあった訳ではない。
二人でゴンドラ内に入ることしか頭になかった。
少なくともゴンドラの外や鉄骨の上に乗っているよりは、安全だし落下の可能性が少ないだろう。
I川は俺の両手に捕まり、腹ばいになってそろそろと足をゴンドラの側面に降ろしていく。
「その穴に入るんだぞ」
「わかってる」
彼女はもう、泣いてはいなかった。
そのとき、突然
「おい、そこ! 何やってる!!」
という声が、下のほうから響いた。
同時に懐中電灯の光が地上から眩しく光った。
I川はびっくりして、裂け目にかかっていた足を滑らせた。
一瞬、彼女の全体重が俺にかかったような気がした。
「く、うー!」
俺は必死の形相で彼女の両腕を支え、なんとか落下は免れた。
「さっ、入っちまえ」
俺はI川の両膝が窓の裂け目に入ったのを見届けると、彼女を上から押し込んだ。
「きゃ」
プールのチューブ型滑り台に吸い込まれるように、I川がゴンドラ内に落ちていった。
その衝撃でまたゴンドラは揺れている。
「おまえら! 何やってる!?」
どうやら警備員と思しき人間が、窓を破る音を聴きつけたか、近所の通報でやって着たらしい。
好都合だった。
俺は、大きな声で下に向かって叫んだ。
「中に病人がいるんです! ゴンドラを地上に戻してくれ! それと、早く救急車を!」
言いながら、俺も窓の裂け目に足をかけた。
やはり俺にはサイズがちょっとキツイ。
右足の踵でさらにアクリル板を下に蹴り、穴を出来るだけ大きくした。そうして、両足を入れるとI川のように滑り台よろしくゴンドラ内に滑降進入した。
落ちた衝撃で、俺は思い切り尻を打った。
「イテテテ。こいつ処女だな、進入に慣れてない……」
目の前に、I川がいて少し笑っていた。
元に戻ったか?

「どうだ? 助けたぞ! 俺たちは。もう大丈夫だ」
と俺は言った。
「うん」
とI川は少し微笑んで頷いたように見えた。
狭い車内で、俺たちは自然と両側に向かい合って座る形になった。
よく見ると彼女の額と首筋に擦り傷があって、血が出ていた。
俺のほうも指と手の甲から2箇所ほど血が滲んでいた。
彼女はじっと、俺を見つめていた。
先日のS病院のエレベーター前で俺を見たときのように、俺を素通りして座っている座席を見ているようだった。
だが、彼女の目は怖ろしいほどに澄んで、靜かだった。
沈黙が流れた。
俺も彼女の目だけをみて、何も言わなかった。
やがて彼女は目を閉じた。
閉じた目から涙がひとすじ、頬をつたった。
最初は右、そして今度は左……。

どのくらい、そうしていたのだろう。
I川今日子は目を見開いて、首を左右に振った。
「パパは、死んだわ」
と言った。
「そうだな」
「あたしたち、助けられなかったわ」
「危険を冒してここまで来たけど、な」
彼女はすっと顎を上げて、俺の頭のほうをを見た。
「血が出てるよ」
「ん? ……そうか。……でも、生きてるぜ」
「生きてる……」
「ああ。おまえも、だ」
俺を見つめるその眼差しは、少女のそれのようでもあり、とても賢い知恵を持った大人の女性のようにも見えた。
「確かにおまえの父親はココで死んだのかもしれない、心臓を患って」
俺は自分の座っている膝を指さした。
「だが、お前が生きていることを、誰よりも喜んでいるよ、今も」
「………」
「そして、おまえが自分を責めるのを、誰よりも悲しんでいるゾ」
「………」
また、彼女の目から涙が落ちた。
「おまえは、いまでもいっぱい愛されてるよ、パパに」
えっ? ……という顔をしてI川が俺を見た。
俺の知っている彼女になりつつあった。
「俺はココへ来てみて、わかった。今でもお前のパパは、誰よりもお前を愛してるよ」
「わかるの?」
「おう。ビリビリ感じるぜ。俺、別にイタコじゃないけど、なっ」
「そうかな……」
「おまえのような娘と会えたのが、最高の幸せだってサ」
「………」
I川は、すっと席から離れ、俺の足元に座り込んだ。
そして目を閉じて、俺の膝に頭を乗せた。

地上から人々の声が聴こえ始め、それは次第にざわざわと大きくなっていった。
遠くから、サイレンの音も聴こえ始めた。

……ガコン。
モーターが回り始める音がして、間もなくゴンドラはゆっくりと回転を始めた。
しばらくぶりに、地上に戻ることになりそうだった。

つづく

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